2026.09.19

父から教わった、道具に使われない生き方

父から教わった、道具に使われない生き方のイメージイラスト

小学生の頃から、身近にあったMacintosh

私の父は、ソフトウェア開発の会社の社長でした。そのため、小学生の頃から私の近くにはパソコンがありました。身近にあったのはMacintosh。父からタイピングの練習をさせられたことも、今につながる思い出の一つです。

当時の私にとって、パソコンは大人になってから初めて触れる特別なものではなく、子どもの頃からそばにある道具でした。とはいえ、近くにあることと、使いこなせることは別の話です。キーボードに触れ、文字を打つ。その練習を通して、まずは自分の手で操作することから始まったのだと思います。

今、こうしてパソコンやスマートフォンが当たり前にある生活を送っていると、幼い頃に触れる機会があったことの大きさを感じます。ただ、父から受け取ったものは、操作方法だけではありませんでした。技術が変わっても忘れたくない、もっと根本にある考え方を教わっていたのです。

「パソコンに人間が扱われるものではない」

父に教わった言葉があります。「パソコンは人間が扱うもので、パソコンに人間が扱われるものではない」。道具を使う主体は、あくまでも人間であるということです。

何のために使うのか。何をしたいのか。自分で考え、その目的に合わせて操作する。父の言葉を今の私なりに受け止めるなら、そういう意味だったのではないかと思います。便利な機能があるから使うのではなく、自分に必要なことをするために道具を使う。その順番を間違えないことが大切なのだと感じます。

パソコンが多くの作業を助けてくれるとしても、何を任せ、何を自分で確かめるかは、人間が決めることです。画面に出てきた答えをそのまま受け取るのではなく、自分の頭でも考えてみる。技術を仕事にしていた父が、技術との距離感について伝えてくれたことには、今だからこそ感じる重みがあります。

スマートフォンを使う私たちは、主導権を持てているか

現代では、パソコンだけでなく、スマートフォンが暮らしのすぐそばにあります。連絡、調べ物、買い物、写真、動画。さまざまなことを一台でできる便利さは、私自身も感じています。

その一方で、特に用事がなくても画面を開き、気付けば長い時間が過ぎていたという使い方もあります。自分で見たいものを選んでいるつもりが、次々に表示される情報を追いかけ続けてしまう。そんな姿を見ると、父の言葉を思い出します。私たちはスマートフォンを扱っているのか、それともスマートフォンに扱われてしまっているのか、と。

「スマホ依存」という言葉を耳にするたびに、道具との主従が逆になっていないだろうかと考えます。ここで誰かを診断したいわけではありません。私自身も含めて、自分の時間や判断を、いつの間にか画面に預けすぎていないか。そのことを問い直したいのです。

便利さを否定する必要はないと思います。ただ、開く前に目的を考える、用事が終わったら閉じる、目の前の人と話すときは画面から離れる。そうした小さな選択の中に、道具を使う側であり続けるための姿勢が表れるのではないでしょうか。

父が大切にしていた「分相応」という考え方

父は、「分相応」を大切にする人でもありました。自分の立場や暮らしに合ったものを選ぶこと。背伸びをして何かを手に入れる前に、その中身が伴っているかを考えること。父の言葉を思い返すと、私はそのような意味を感じます。

例えば、ルイ・ヴィトンの財布が欲しいけれど、値段は十万円以上する。そんなとき、父からは、それならいつも財布に十万円以上入っていなければ宝の持ち腐れだ、と言われました。

もちろん、財布の価値は中に入れる現金の額だけで決まるものではありません。長く使いたい気持ちや、デザインへの愛着もあります。父の言葉を、誰にでも当てはまる買い物の基準として語りたいわけではありません。私にとって大事なのは、その言葉を通して何を考えさせられたかということです。

欲しいという気持ちだけで決めていないか。見た目を整えることに気を取られて、中身がおろそかになっていないか。手に入れたものを、自分の暮らしの中で本当に生かせるのか。父は、物を買うという身近な場面を通して、そうした問いを私に投げかけていたのだと、今は受け止めています。

新しさや値段より、自分にとっての意味を考える

この「分相応」という考え方は、パソコンやスマートフォンとの付き合い方にもつながる気がします。高価な機器を持つことと、それを役立てられることは同じではありません。たくさんの機能があっても、自分の目的に合っていなければ、その良さを生かしきれないこともあります。

反対に、必要なことをきちんとできる道具であれば、それが自分にとって十分な一台になることもあるでしょう。人が持っているから、話題になっているからという理由だけでなく、自分は何に使うのかを考える。その視点を持っていたいと思います。

背伸びをすることがすべて悪いとは思いません。憧れが努力のきっかけになる場合もあります。ただ、手に入れることだけをゴールにしないこと。持った後の自分の行動や使い方まで考えること。父の教えは、欲しいものを諦めるためではなく、自分の選択に責任を持つための言葉として、私の中に残っています。

父となった今、変わる時代をどう見つめるか

今は、私自身が父親の立場になりました。子どもの頃に教わる側だった私が、今度は何を伝えるかを考える側になっています。同じ言葉であっても、受け取る立場と伝える立場では、その重さが違って感じられます。

世の中は変わり、道具も変わります。私が子どもの頃に身近にあったMacintoshと、今の子どもたちのそばにあるスマートフォンでは、できることも触れる情報も違います。自分の経験だけを基準にして、すべてを決めつけることはできないと感じます。

だからこそ、時代の流れをそのまま受け入れるだけではなく、一度立ち止まって考えることも必要なのだと思います。便利になったからよい、みんなが使っているから正しい、と簡単に結論を出さない。その変化が、自分や家族にとってどんな意味を持つのかを見つめたいのです。

同時に、疑うことは、新しいものをすべて拒むことでもありません。知らないまま遠ざけるのではなく、知ろうとしたうえで選ぶ。昔から大切にしてきた考え方と、今の暮らしに合う方法を、どう両立させるか。父親になった私自身にも、その姿勢が問われているのだと思います。

厳しく、優しい父へ。今あらためて感じる感謝

父の言葉には厳しさがありました。それでも、振り返ったときに私の中に残るのは、厳しさだけではありません。道具に振り回されず、自分で考えること。見栄や形だけにとらわれず、自分に合った選択をすること。そうした教えを残してくれた父への感謝があります。

子どもの頃に聞いた言葉は、その場ですべてを理解できるとは限りません。年月がたち、自分が似た場面に立ったときに、あの言葉にはこういう意味もあったのかと感じることがあります。私にとって、父から教わったことは、今も考え続けるきっかけになっています。

私も、子どもに何かを伝えるとき、言葉だけでなく自分の行動を振り返りたいと思います。スマートフォンを置いて向き合えているか。物を選ぶときに、中身や必要性を考えているか。教える側になったからこそ、自分にも問いかけることを忘れずにいたいです。

時代が変わっても、道具を使うのは人間です。何を選び、どう使い、何を大切にするか。その判断を自分の手に持っていたいと思います。厳しく、そして優しい父に、あらためて感謝しています。

合同会社Y.S.K 代表社員 関根 裕介

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